Siriの誕生をめぐる話、あるいは米国民の税金が音声エージェントに化けた件

概要:iPhone 4Sの音声エージェントSiriは、イノベーションがどうやって生まれるかを考える格好の事例である。この記事ではSiriの出自を遡りながら、基礎研究の重要性を考える。

アップルの新作iPhone 4Sは、名前どおりiPhone 4からそれほど変化がない。デザインはほぼ同じだし、プロセッサやカメラは高性能になったが、もともと貧弱だったわけでもない。だからiPhone 4Sの話題が、新機能の音声エージェントSiriに集まるのは、ある意味で当然と言える。

アップルが音声で操作できる「電子秘書」(エージェント)をiPhoneに組み込むらしい、という予測は以前からあった。理由は簡単で、アップルが2008年8月にエージェント開発企業を買収していたからだ。その企業は名前をSiriといい、SiriというiPhoneアプリを2010年2月から提供していた。当時の動画を見れば、現在のSiriの基本機能がアップルに買収される前からすでにほぼ実現していたことが分かる。

つまりアップルは、サードパーティで提供されていたアプリの開発企業を買収し、iPhone 4Sの基本機能としたわけだ。買収額は明らかになっていないが、Business Insiderは1億ドルから2億ドルと報じている。

(ちなみに、このアプリ版SiriはiPhone 4Sの発表後、サービス終了が伝えられた。アプリ版はiPhone 4でも利用できたのだが、4S限定機能としたのはマーケティング上の問題だろうか。中にはiPhone 4SのSiriをiPhone 4やiPadへ移植しようという動きも出ている)

Siriという企業は、SRIインターナショナルからのスピンオフとして、2007年10月に設立された。いわゆるベンチャー企業である。おおもとのSRIインターナショナルは米国を代表する研究機関であり、米国政府などから年5億ドルほどの資金を集めて、2000人以上のスタッフが様々な研究を行っている。

このSRIインターナショナルは、2003年から2008年までの5年間、CALOというプロジェクトを実施していた。25以上の大学や研究所と連携した大プロジェクトで、その予算規模は少なく見積っても1.5億ドル程度である。

CALOは”Cognitive Assistant that Learns and Organizes”の略であり、日本語で言えば「学習のうえ整理する認知アシスタント」ということになる。ようするにエージェントのことだ。SRIから見れば、5年にわたるエージェント研究の成果をベンチャーとして切り離し、SRI自身とベンチャーファンドによる支援を行ったのち、アップルに売り払ったということになる。

そして、CALOプロジェクトに1.5億ドルの助成を行ったのが、DARPAである。DARPAはDefense Advanced Research Projects Agencyの略で、日本では国防高等研究計画局と呼ばれる。アメリカ国防総省下の機関であり、軍事用技術の研究開発を行っている。GPSが軍事技術であることを知る人は多いかもしれないが、このGPSをもともと開発したのがDARPAだ。インターネットの先祖であるARPANETもDARPAによるものである。最近だと、インターネットで人気の四足ロボット、Big DogのBoston Dynamics社もDARPAから支援を受けている。

DARPAは以前、PALと呼ぶ研究プログラムを実施していた。”Personalized Assistant that Learns”の略で、つまり「学習するパーソナルアシスタント」である。もちろん用途は軍事だ。戦場における状況変化に対応し、助けてくれる人工知能というわけである。このPALプログラムにおいて契約を勝ち取ったのがSRIで、SRIはそのお金でCALOプロジェクトを実現した。

DARPAは国の組織であり、運営資金は、平たくいえば税金である。単純化して言えば、米国民の税金が(あるいは国債を買った外国人のお金も)、DARPAに渡り、それがSRIインターナショナルの研究資金となって、その成果がアップルのiPhone 4Sに搭載され、米国民(とそのほか多数の国の人々)の手に渡ったわけだ。まさに産学官連携だ。

もちろん、米国においてもすべての新技術がこうした産官学連携から生まれるわけではない。Siriは特別な例かもしれない。それでも、目新しい技術の背後に長い地道な基礎研究があることを、あらためて示しているのは確かだ。

なぜ日本でiPhoneが生まれなかったのか、なぜスティーブ・ジョブズが日本に存在しないのか、そのような答えのない問いを投げかけるのは簡単だ。しかし本当に考えるべきは、未来のために今どのような研究を行うかではないだろうか。ただお金をかければいいわけではないが、お金をかけなければ、新しい技術は生まれない。新しい技術が生まれなければ、新しいビジネスも生まれない。

米国では良くも悪くも、軍の研究にお金を注ぎ込むというコンセンサスがあり、そこから新しい技術が生まれている。日本が技術立国の道を今後も歩むつもりならば、同じようなコンセンサスが必要だろう。日本企業に元気がないというのは、ただ企業経営だけの問題ではない。私たちはいったい、なにを研究すべきだろうか?

いくつか余談を。まず、アップルは1987年当時カラ音声エージェントKnowledge Navigatorの構想を示していた。もっとも、ジョブズのいない時期だったせいか、アップルは今回のSiriと結びつけようとしていない。

残念ながら、Siriはいまのところ英語とフランス語、ドイツ語にしか対応しない。しかし2012年には日本語にも対応する予定である。また、SiriのCEOだったDag Kittlau氏は、新しい研究テーマを求めて、すでにアップルを退社した。そのアップルは先日、C3という地図データ開発企業を買収した。C3を生んだのは、スウェーデンの軍事企業SaaBである。そしてDARPAはBOLT(Broad Operational Language Technology Program)と呼ばれる他言語翻訳の研究をはじめている。

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Wikileaks、最後の嫌がらせ

毎日のように記事を書くつもりだったのですが、公私飲み会となんだか猛烈に忙しく、ぜんぜん情報発信ができていません。というわけで合間を埋めるコネタを。

Wikileaksが活動停止を発表しました。細かな話は省きますが、昨年末の米国外交公電の流出事件から、VisaとかPayPalとかWIkileaksの寄付を受けつけていたはずの企業が口座を凍結してしまい、Wikileaksの活動資金が途絶えてしまったのが原因です。

という状況を踏まえたうえで、記者会見の様子を伝える映像がこれ。笑えます。

そういえば、すこし前はこんな広報動画も作ってました。

Wikileaksの哲学や活動内容にはいろいろな意見があると思いますが、あれだけのシビアな状況で、このようなユーモアを持ち出す気概は賞賛したいものです。

もうひとつおまけ。ラップで時事ニュースを伝えるThe Juice MediaがWikileaksを取り上げた時の回。最後に特別ゲストが出てきます。

スティーブ・ジョブズ考:ビジョンとは実現したもの

概要:多数の斬新な商品をヒットに導いたスティーブ・ジョブズ氏はビジョナリーと呼ばれる。しかし彼のビジョンとは一般に見られるように未来を語ることではなく、現在を変えることであった。



スティーブ・ジョブズ氏が亡くなった。ジョブズ氏の業績と功績についてはこれまでも散々語られてきたし、これからも長く語られるはずだ。私は特別にジョブズ氏のファンというわけではない(私はドン・ノーマンのファンである)。アップル製品についても、かつてMacを所有していて、いまは愛用のiPod classicと、研究用のiPod touchとiPadを持っている程度だ。ただ、そんな私でも、なにかを語りたい気分になる。そういう魅力がアップルとジョブズ氏にはあるのだろう。

(実は、氏がアップルのCEOを退任したとき、すでに私は短いコラムを書いた。でも、このブログをはじめる前の話で、たぶんほとんどの人が読んでいないだろうから、もう一度同じようなことを書いてみる)

さて、いったい、ジョブズ氏はなにが優れていたのだろうか。アップルが彼を追悼したウェブページには、ビジョナリー(Visionary)という言葉が出てくる。ビジョンがある人、という意味だが、夢想家とか預言者という意味もある。日本語ページでは「先見に満ちた(人)」と訳されていた。さらにビジョンという語自体を考えるなら、日本語では先見、展望、構想というような概念があてはまるだろう。

では、ジョブズ氏の抱いた構想とはなんだろうか。率直に言えば、あまりはっきりしない。ジョブズ氏がiPhoneやiPadやMacBook Airでもって、どのような世の中が到来することを望んでいたのか、説明できる人は少ないのではないか。たとえば、アップルのIRページはたいへん素気なくて、企業理念やら中期経営計画といった企業のウェブサイトにお決まりの「ビジョン」はほとんど語られていない。アップル取締役会の秘密主義については、株主からの批判もよく聞かれる。

それでも、ジョブズ氏はビジョナリーと呼ばれる。それは、彼が自分たちの製品でもって、多くの変化を世の中にもたらしたからだ。Mac OS Xが出てから、Windowsはようやくデザインの改良に着手した。iPhoneが出る前のAndroidプロトタイプはBlackBerryそっくりだった。iPadが出るまえのタブレットは重くてペン入力だった。また、iPodによって音楽業界は破壊され、iPhoneによって通信業界は優位性を失い、ソフトウェア業界は新しいビジネスチャンスを得た。いまはiPadによってPC業界が変わろうとしている。この十年、アップルほど他社、他業界に変革を迫り、製品でもって社会を変化させた企業はない。

つまりこういうことだ。普通の企業が語るビジョンとは、これから到来する未来である。実現するかもしれないし、しないかもしれない。対してアップルのビジョンとは、いま出来ることである。彼らの製品を買うだけで、そのビジョンは現実になる。だからアップルは発表からすぐに製品を発売する。アップルが秘密主義なのもそのせいだ。ジョブズ氏がどのような未来を期待していたのかは分からない。しかし彼が期待していた現在は、今日のようなものであっただろう。

いまは情報過多の時代であり、ビジョン過剰の時代でもある。誰もが理念や夢や構想を語るが、実現できる者は少ない。コンテンツが揃えば魅力的な商品になるはずの製品や、ユーザー数が増えれば面白くなるはずのサービス、実現しそうにもない将来像を夢見る企業、そういったものがビジョンだけを語っては消えて行く。アップルという会社自身、ジョブズ氏が復帰する直前はビジョンを語るだけの会社だった。CoplandやOpenDoc、Newtonといったアイデアについて夢だけが大きく語られ、なかなか実用化せず、やがて消えた。

私たちは実現しないビジョンに飽き飽きしている。そんな中で、ジョブズ氏だけが今すぐ実現するビジョンを掲げ続けた。iMacにiPod、iPhoneやiPadなどを販売し、世の中を変えた。ジョブズ氏がビジョナリーと呼ばれる理由は、つまるところひとつである。実現してこそのビジョンなのだ。歴史に残るビジョンとは、実現すべきものでも、実現する予定のものでもなく、実現したものなのである。かつて、アラン・ケイは「未来を予測する最良の方法は、それを発明することだ」と言った。ジョブズ氏はまさにそうしたのだ。なぜ私たちはビジョンを実現できないのだろう。私は自問自答を続けたい。

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写真:acaben (cropped by Kyro)

ネットデマと戦う:ギズモード湯木進悟編

この記事の位置付け:

ネットにおけるデマ流通がなぜ増えているのか、どのように止められるのかを考察するとともに、デマ発信源の例として有名ブログ「ギズモード」ライターの湯木進悟氏を挙げ、その問題点を列挙することで、ネットにおけるデマ問題への関心を高める。

なぜネットでデマが生まれるか:

ブログをはじめとするソーシャルメディアの普及により、今日では多くの人が簡単に情報を発信、流通できるようになった。おかげで個人の面白い話やタメになる情報を簡単に入手できるようになったし、コミュニケーションも容易になった。基本的には喜ばしいことだ。しかし良いことばかりではない。ソーシャルメディアには、多くの人が簡単にデマを発信できる、そして多くの人がその流通に加担できるという側面もある。実際、ネットで生まれ、ソーシャルメディアで拡散されるデマがこのところ相次いでいる。

デマの流通がさかんになったのは、ただネット人口が増え、ネットに流通する情報そのものが増えたからだけではない。たとえばTwitterはデマの流通にうってつけのメディアで、Twitter人気がさまざまなデマの拡散に貢献していることは否めないだろう。一度に140文字しか発言できないというTwitterの特長は、ユーザがキャッチーな(しかし間違った)表現を優先する傾向を生み出し、これはデマの温床となる。デマTweetはまずその情報発信者をフォローした人達に届けられるため、ブログのように公平な場で開示されるよりも鵜呑みにされやすく、的確なツッコミが入ったときは手遅れという例も少なくない。またURLは短縮されてしまうため、情報元を把握しづらく、情報元が確認されないままに拡散される危険性がある。そして非公式RTの連鎖は、伝言ゲームによる表現の歪みを生み出す。

もちろん、デマというものはソーシャルメディア、ネットメディアの登場以前からあった。今日でも、真偽の不確かな情報や、まるっきり間違った情報を積極的に発信することで、デマの拡散に貢献している新聞紙や雑誌は少なくない。しかし新聞や雑誌については、私たちはなにがどの程度のクオリティを保っているかについて、おおよその共通理解を持っている。しかしネットメディアではこの共通理解がまだ不確かであるため、何度もデマを繰り返しているにも関わらず、まだそのように認識されていないものが多い。

ネットデマとどう戦えば良いか:

私はこのようなデマの対処法として、ブラックリストの作成を提唱している。SPAMと同様に、デマの根源となるメディアをリストアップし、それらの情報をTwitterから、はてなブックマークから、Facebookから遮断することで、デマとの接触を未然に防ぐのである。実際、そのような機能を備えたTwitterクライアントも存在する。この方法が効果的なのは、SPAMが一部の企業によって大量に生成されているように、ネットのデマも一部の人間が生み出しているからである。考えてみれば、デマを何度も生み出すには、それなりの影響力(ページビュー、フォロワー数)が必要なのだ。しかしブラックリストでは、自らをデマから防ぐことはできても、デマの流通そのものを防ぐことはできない。将来的にブラックリストをユーザ間で共有していく仕組みがあれば良いが、多くのネットユーザーがそのような仕組みを利用できるまでにはまだ時間がかかるだろう。

もちろんネットがデマで溢れようと惑わされない俺は問題ない、というスタンスをとることもできる。しかしデマの流通を見過しては、(大袈裟に言えば)社会が誤った認識に至る可能性がある。誤った認識が社会常識となってから間違いを訴えても遅い。私自身、できればもっと前向きなことを考えたい(泣き言を言えば、こんな記事を書いたところでなにも私にメリットはない)。しかし現実にデマが流通していて、それを止めたいと望む以上、デマの例をひとつひとつ挙げて、その悪質さを示すしかないのである。

残念ながら世の中にはデマでもなんでもいいからPVを稼ぎたい人、騒ぎたいだけの人、「釣り」で楽しんでいる人もいて、そういう人達にとってデマの指摘は無粋なことだろう。もしかすると、なにが事実なんてどうでもいい、なんでも事実を知りたがるのは「事実厨」のやること……と言われるかもしれない。それでも私はデマを容認するでも黙認するでもなく、もちろん拡散するでもなく、抵抗していくことで、より良いネットメディア環境が育っていくと信じたい。


ネットデマ発信源の具体例:

そろそろ具体例が必要だろう。というわけでここでは悪質なデマを繰り返す例として、ITブログメディア「ギズモード」のライターである湯木進悟氏を取り上げる。ほかにもデマを繰り返すメディアはあるが、氏を取り上げたのには幾つか理由がある。

  • 記事の題材の大半がITで、私の専門であること:
    武田邦彦氏のことはNATROM氏に任せたい。
  • 記事の多くで社会的なテーマについて言及しているのに、大勢の人がデマと気付いていないこと:
    エイプリルフールのジョークにツッコミを入れるようなことはしないが、氏のデマはそのような些細なものではない。そしてはてなブックマークなどの反応を見る限り、氏のデマを大勢が信じている。
  • メディアとしての規模が大きく、価値が認められていること:
    サーチナやガジェット通信の価値についてはわざわざ取り上げるまでもない……と思いたい。
  • 「ギズモード」には他のライターによる良質な記事もあるのに、氏のひどい記事もあるという状況が異質なこと:
    良い翻訳者もいるのに、彼らが同僚になにも言わないのは不思議だ。
  • 氏の記事は大半が「ギズモード」英語版の翻訳記事であり、原文との比較で検証が容易であること:
    もちろん原文が正しいとは限らないが、氏の記事のひどさはそうしたレベルを超越している。
  • 氏の記事に明白な問題があること:
    たとえばTechCrunch JAPANの岩谷訳は時折かなりひどいが、おおむね事実誤認にまでは至らないので、かろうじて趣味の問題と言えなくもない。これに対して、氏の記事は圧倒的にひどい。

私は氏と面識はないし、個人的な恨みもない(デマを拡散しているということを除けば)。私自身も誤訳をすることはあるので、誤訳ひとつにそう目くじらを立てるつもりもない。リンチするつもりもなければ、金輪際執筆をやめろと言うつもりもない。ギズモードには知人もいるし、有益な記事もあるので、ネガティブキャンペーンをしたいとも思わない。ただ、あまりにひどい記事に対しては、私に出来るのはこうして指摘することだけなのだ。それに、同姓同名の別人でなければ、マイコミジャーナル時代、氏ははるかにまともな記事を書いていた。なんとか今後はまともな記事を書くよう祈るばかりである。

以下は問題のある記事の紹介と、問題点の指摘であり、本記事はこれでおしまいである。途中で飽きても良いように、ひどい順に並べた。これらの記事をどの程度の問題と考えるか、それにどう対応すべきかという点については、読者の感想にお任せする。氏によるデマ記事がほかにもあれば掲載するのでコメントをTwitterなどでいただきたい。また認知されていないデマメディアがあれば、このようにまとめ記事を作っていただけると参考になる。

デマ例)自由過ぎるAndroidがユーザーに敬遠され始めてる? 悲劇のガラケー化する懸念まで噴出中…
問題点:
Androidに様々なバンドルソフト(本文ではブロートウェア)が導入されていることを懸念する記事。その指摘自体はおかしくないが「おまけに多くのアプリが、最初の試用期間のみ無料であるものの、一定期間が過ぎると勝手に有料に切り替わって、利用料金を請求される羽目になるというイワクつきだったりもするんですよね」などと原文にないことを平気で付け加えている。具体例はない。引用されている専門家のコメントもまったく翻訳の体を成しておらず、好意的に言っても捏造である。

この記事はちゃんとした訳との比較も行われている。実はこの比較記事を書いたのは私だ。氏のコメント捏造や事実誤認をまるでイタコのようだと感じた私は、これを「イタコ訳」と表現し、おかげさまでそれなりの認知を得た。比較記事をおもしろおかしく書いたのは、正直に言えば、ここまで書けば問題は改善されるだろうと思っていたからである。しかし実際には、同氏の記事は「翻訳」ではなく「英語版に基いた独自記事」という体裁をとるようになっただけで、イタコ的な執筆は続いている。

デマ例)トリケラトプスが教科書から消える?
問題点:
トリケラトプスとトロサウルスは実は同じ生き物だった、という記事。これは原文(英語版)の「トリケラトプスは存在しない:実は他の恐竜の子供だった」というタイトルがすでに悪い。英語版が参照しているBoing-Boingのタイトルは「ふたつの恐竜がひとつになるとき」であり、さらにその参照元であるNew Scientistのタイトルは「変身ザウルス(Morphosaurs):形を変える恐竜はどのように我々を欺いたか」である。知性のキャズムを見るようだ。氏は「えっ、お馴染みのトリケラトプスという名前も消えちゃうのかな?」などと適当なコメントでお茶を濁しているが、クエスチョンマークを付けるだけまだマシだろうか。

この記事にもツッコミを入れたブログや、批判まとめが存在するが、残念ながら誤解のほうが早く広まっている。

デマ例)アップル、今度はAndroidに全面戦争…そもそもAndroidのベースを作ったのはアップルで、特許侵害に当たると提訴!
問題点:
Androidのアイデア(具体的には「リアルタイムAPI」と呼ばれる特許)は、Androidの父と呼ばれる現GoogleのAndy Rubinがアップルで働いていたときに思いついたものだ、というアップルの主張に関する記事である。十分にセンセーショナルな内容だが、氏はこの主張が長く続くアップルとHTCの訴訟のあいだで出てきたものという背景を知らないか無視しているため、この主張は「アップルが米国際貿易委員会(ITC)に提出した訴状」で「すぐさま米国内でAndroidを搭載する全製品の販売差し止めを行なうように要求」するという内容だと書いてしまっている。繰り返しになるが、実際は継続している訴訟の話であり、タイトルからして間違っている。

もしアップルがAndroid製品すべての差し止めを求めるなら、当然ながら新しい裁判が必要になるだろうが、そのようなことは今のところ起きていない。英語版記事では煽りつつも慎重に「将来的に米国でAndroidの販売差し止めの根拠として利用されるに十分だ」と書いている。大違いだ。このインパクトのある記事は2ちゃんねる経由でゲハ系ブログに引用され、悲惨なほどのデマ拡大を招いている。

デマ例)iPhoneやiPodで音楽を聴かなくなってる? 楽曲ダウンロードが失速中…
問題点:iOSアプリがiTunesの楽曲よりも早いペースでダウンロードされている、という記事である。リンク先のグラフを見れば分かるとおり、楽曲ダウンロード数も堅調に伸びている。氏の言う「伸びが鈍化してきている」というのは微妙な表現で、たしかに伸び率は目立って増えていないが、ダウンロード数の伸びが鈍化しているわけではない。いずれにせよ「iPhoneやiPodで音楽を聴かなくなってる?」の質問の答えはノーであり、「時代を追うごとに音楽を聴くスタイルが変わってきたという指摘もありますけど、そもそもお金を払ってまで音楽を購入して聴く人自体が減ってきちゃったってことなんでしょうか?」といった考察はまったく無価値である。

デマ例)ソニー、CES終了後に大発表か! 重大な事業見直しを明らかに
問題点:ソニーが業務改革を行うというらしいというTIMEの記事に氏が「えっ、もしやプレステ撤退?」と根拠不明のコメントを付け加えたせいで、mixiニュースが「プレステ撤退? SONY重大発表へ」と伝え、伝言ゲーム的に「ソニーPS撤退」ネタが広がった。

デマ例)ケータイ各社の度肝を抜いたアップル! 携帯電話キャリアに縛られない新サービス「iMessage」は寝耳に水の大反響…
問題点:iOS5で搭載されるiMessageの記事。元ネタは業界有名人John GruberのDaring Fireballで「詳しい筋によれば、アップルのキャリアパートナーはiMessageについて、キーノートで発表されたときにはじめて知ったということだ」というだけである。いわゆる業界うわさ情報になるが、氏にかかれば、これはいきなり断定文になる。「iPhoneを提供しているケータイ各社は必死の対応に追われているみたいですよ」がどこから得た情報なのかは謎だ。まあ、このレベルを上げればキリがない。

デマ例)これがiMessageだ! iOSでつながる最強のメッセンジャーに期待…
問題点:もうひとつiMessageについての記事。氏がよくやるテクニックだが「もしやついにiPhoneやiPadも、このレベルのプロフェッショナルユースにだって使えちゃうねって絶賛評価が出てきています!」といった感想が、誰から出てきているのか分からない。少なくとも原文にはない。自分の感想を伝聞系にしているのか、それとも友達にでも聞いたのだろうか。(そもそも「もしやついに…って絶賛評価」ってどういう意味なのだろう)

デマ例)任天堂、iPhoneなど敵でもなんでもないと強気の姿勢!
問題点:はてなブックマークで紹介されていたので追記。任天堂、岩田社長の英字インタビュー日本語訳だが、本人が言ってもないことを平気で書いている。すごく平易な英文なのに……。妄想だったらインタビューの体裁をとらないで欲しい。まさにイタコ訳。

デマ例)デザインじゃない、カギは速度なのだよ! 驚きのLTE高速通信対応の新「iPhone 4S」が9月発売か…
問題点:Twitterで教えてもらった記事。タイトルには次のiPhone(iPhone 4S)が次世代通信技術であるLTEに対応するとあるが、本文を読むと、同じ次世代通信技術ではあるがLTEとは別のHSPA+に対応するとある。英語版も、参照元のAppleInsiderも、その参照元のForbesも、主題は「アップルはLTEに対応させたかったけど、できなかった」なのだが、氏のタイトルではこの根本が反転している。

デマ例)この流出はヤバい…匿名のはずのウィキリークス情報源がダダ洩れの疑い!
問題点:はてなブックマークで紹介されていたので追記。Wikileaksのパスワードが漏れ、これまで細かな部分を削除したうえですこしずつ公開を行っていた米国の外交公電が一気に流出したという話である。問題は「Wikileaksの情報源」ではなく、「Wikileaksに流出していた外交公電の情報源」であり、規模を考えるとはるかに深刻なことなのだが、氏はそれを混同している。そもそもWikileaksに情報を提供するために身元を名乗る必要はないので、情報源として漏れる危険性はない(もっとも、情報を提供したのは米陸軍のブラッドリー・マニング上等兵と言われている)。

参考)本当に風が変わってきたのか…ついに企業でもWindowsではなくMacを選ぶ会社が急増中!
問題点:これはすごく釣りっぽいのだが、原文と参照先のAppleInsiderを見れば確かにそのようなことが書いてあり、翻訳(風)記事としては間違っていない。しかし「Fortune 500に選出されている有名企業の35%が、社内で利用するパソコンの選択肢としてMacを選べるようにしており、実際には多くの社員がMacの購入を進めている」「学生の8割が、新しく購入するパソコンはMacだと答えた」の証言元は、Global Equities Researchなる投資会社のアナリスト、Trip Chowdhry氏で、これらの企業やアナリストについて検索してもChowdhry氏がGlobal Equities Researchの創業者で、いろいろなITの話題にコメントしている以外の情報が出てこない。何を情報源に書くかというのはメディアとして重要なポイントだが、それはここではまあまた別の話だ。

参考)オンラインバンキング利用でハッカーに盗まれたお金は戻ってきません…ややセキュリティーの甘い銀行にも責任なしとの判断が!
問題点:これはタイトル釣りパターン。お金が戻ってこないのはアカウント情報を盗まれた本人のせいというだけである。見たところ本文におかしいところはない。

参考)Androidは自由の天国だと思い込んでる? グーグル、勝手にユーザーのケータイからアプリ削除中
問題点:
GoogleがユーザーのAndroidスマートフォンから悪意のあるアプリを削除した件について書いた記事。Googleなりのセキュリティ対応策について非常に煽ってはいるが、おそろしいことに嘘を書いているわけではないので、氏の翻訳(あるいは創作)にしてはマシである。

参考)核爆発、実は世界中でいっぱい起きちゃってる件
問題点:指摘するのも憂鬱になるが、いかにも釣りっぽいタイトルのせいか、この記事には批判が多かったようで、珍しいことに「一部誤解を招く表現がありましたので、書き換えました。関係者にはお詫び申し上げます」という追記が行われている。なぜ他は訂正しないのだろうか?

TechCrunchでなにが起きているか

この記事の位置付け
TechCrunch JAPANにとつぜん「TechCrunchが根本的に(悪い方向へ)変わるかもしれない」という記事が掲載されて、いったいなにが起きているのかさっぱり分からない人のための(暫定)まとめ。(この記事は2011年9月7日の朝に書かれた。そのあと末尾に追記を加えている)

前提:
TechCrunchは米国を代表するIT&ベンチャーブログ。創業者&編集長はMichael Arrington。2010年9月、AOLに買収されたが、Michael Arrington体制は変わっていない。AOLは他にもEngadgetやHuffington Postなどのコンテンツメディアを買収・所有しており、コンテンツメディア部門の長はHuffington Postの創業者、Arianna Huffingtonである。ちなみにAOLがHuffington Postを買収したのは、TechCrunch買収より後の2011年2月。

発端:
シリコンバレー業界人として著名なMichael Arringtonはもともと有望ベンチャーに出資を行っていた。ArringtonとAOLはそのエンゼル事業を、AOLの資金や他のエンゼルも巻き込み、CrunchFundという名前のもとで拡大させることになった。

騒動:
CrunchFundの件は9/1にNYTimesが報じた。NYTimesの記事は「ベンチャーをネタに取り上げるジャーナリストが、ベンチャーファンドもやるなんて」という批判的な文調だった。おまけに記事ではAOL幹部の「TechCrunchではジャーナリズムは別」と読みとれるようなコメントまで掲載されてしまった。TechCrunchのライターは即座にこの見解を否定し、ファンドはブログには関係ないし、なんであろうと(従来どおり)ジャーナリズムに則ると訴えた

混乱:
多くのメディアが、Michael Arringtonの役割について批判的な立場をとった。Arianna HuffingtonやAOLの広報は、ArringtonはTechCrunchを離れるとか、TechCrunchは離れるけどAOLには残るとかコメントして混乱に輪をかけた(これこれこれこれ)。

反発:
沈黙を守っていたTechCrunch自身において、主要ライターであるMG Sieglerがついに「こんな状況やってられん」と記事を書いた(9/6)。そしてArringtonはようやく口を開き、AOLに(Arianna Huffingtonの下ではない)編集権の独立を担保するか、TechCrunchを売るかの二者択一を迫った(9/6)。

日本の状況:
MG Sieglerの「やってられん」記事が話題の「TechCrunchが根本的に(悪い方向へ)変わるかもしれない」である。いつもの岩谷訳、おまけに抄訳のせいで、ややこしい問題がさらに分かりづらくなっている。TechCrunch JAPANでそのあとに掲載された「CrunchFundとArringtonの編集長離任に関して―われわれの倫理基準に裏表はない」は9/2時点の記事(このまとめで言う「騒動」のところ)なので、時間軸が前後している。でもってArringtonが最後に投げた記事の翻訳が「編集権の独立」というわけ。


感想と論考:
まとめていて思ったが、まずそもそもCrunchFundを設立しようとしたMichael Arringtonには、ファンドとジャーナリズムの両立について説明責任があったのではないか。編集の独立を求めるライターの意見はもっともだが、Arringtonを擁護しながらAOLに反発するのは、どうも矛盾を感じる。またArringtonの結論だけを読むと、CrunchFundのゴタゴタはあくまできっかけでしかなく、当初こそAOL傘下でもやっていけると思ったが、今年になってAOLのHuffington Post買収とともにTechCrunchがArianna Huffingtonの管轄下に入ることになってしまい、やりづらさを感じていた部分が噴き出たようにも見える。

せっかくなのでもうすこし論考を加えると、この騒動の背景にはみっつの「ズレ」があったように見える。ひとつ目はいう間でもなく、大企業AOLとカリスマブログTechCrunchのズレである。しかしTechCrunchが求めていることは結局のところ「AOLは編集方針に手を出すな」というだけであり、それを守ることは本来そう難しくなかったはずだ。

むしろ注目すべきは、先にも書いたとおりAOLのコンテンツメディアを任されることになったHuffington PostのArianna Huffingtonと、ジャーナリズムを標榜するTechCrunchの、ブログメディアに対するスタンスのズレではないか。Huffington Postは真面目記事からゴシップまで取り揃えるなんでもブログであり、編集方針があるとすればそれは「PVを稼ぐ」だろう。実際、Huffington PostのPVはNYTimesを超えると言われるほどである。「PVを稼げればなんでもいいのか」「ブロガーはジャーナリストを気取れるのか」という問題にはいろいろなスタンスがあるけれど、TechCrunchのライターとArianna Huffingtonのスタンスは明らかに違う。こう考えると、カネ(PV)と評判という、ブログメディア(あるいはメディア全般)に普遍的な問題になってくる。

もうひとつ、今回の騒動でNYTimesの記事がとても批判的だったのも面白い。NYTimesのようなエスタブリッシュメディアにしてみれば「やっぱりブログメディアはジャーナリズムなんかじゃないじゃん」という感じだったのだろう。マスメディアとネットメディアの視点のズレは今にはじまったことではないけれど、ここまで前者が後者に牙をむく背景には、マスメディアなりの鬱憤があったように感じられる。(なにしろNYTimesはメディア系でナンバーワンPVを誇ってたのに、どこの馬の骨とも分からないHuffington Postに抜かれてしまったのだ)

というわけで、今回の問題はただのお家騒動ではなく、ブログメディアが生きていく上で考えなければいけない様々な要因を孕んでいる。ブログはどこへ行くのかあらためて考える機会になればいいな、というのが個人の感想である。


さらなる論考(9/8夜)
9/8時点のいま、Michael ArringtonはTechCrunchを辞めたという話が聞こえているが、TechCrunch自身からの発表はない。そしてもうこの記事を読んでいる人はそう多くないだろうが、それでも二点だけ追記したい。

ひとつ書いておけば良かったなというのは、Michael ArringtonはTechCrunchの創業者である以上、ジャーナリストであると同時に生粋のビジネスパーソンであるということだ。NYTimesの雇われ編集者とはそもそも立ち位置が違う。だから彼にとってジャーナリズムとビジネスの両立というのはある意味では自然なことであり、CrunchFund構想もその延長線上にあるものとして理解できなくはない。もちろん他のメディアも経営については考えなければいけないわけで、たとえば日経新聞にも広告が掲載されているわけだが、新聞などは記事を書くジャーナリストと、カネを考える役回りは別の人間がやるということになっている。しかし役割分担をすれば中立なのか? Michael ArringtonはNYTimesだっていろんな企業に投資している指摘する。これは個人ジャーナリズムの時代ならではの問題と言えるだろう。

もうひとつ忘れていたのは、Michael Arrigtonは以前も一人二役について批判を受け、ブチ切れ記事を書いていたということだ。彼はジャーナリズムに透明性は必要だが、客観性なんてものはないと言う。これに賛成するか反対するかは意見の分かれるところだろう。今回、TechCrunchが他メディアから一斉攻撃を受けているのも、こうした過去のいざこざが背景にあるのは間違いない。Fortune/CNNは、他にも代替メディアはいろいろあるんだからTechCrunchなんて用済みだと言い切ってる。いささかプロレスチックな展開だが、横へ習えのメディアよりは、このような議論が巻き起こるメディアのほうが健全だ。

さて、99%の方はこの記事で当ブログをはじめて目にしたと思うが、このブログはもともとITまわりのトレンドからビジネスチャンスを考えるという主旨ではじまった。今回の騒動をふまえ、ブログビジネスの将来について従来フォーマットでの記事を掲載したので、あわせて読んでいただけると嬉しい。

結末(9/12)
AOLはMichael ArringtonがTechCrunchとAOLから離れたこと、TechCrunchの次期編集長にErick Schonfeldが就任したことを発表した